ヨガスートラの教え:自分の感情と距離をとってみよう
2015.09.25
:苦しみを防ぐのであれば、観るもの と 観られるもの を分けなくてはならない
「自分」について、ここ最近よく考えるようになりました。それは41才の私ではなく、小林美智子でもなく。男性/女性といった性別もない、純粋な「自分」について。
私たちが四六時中「自分」だと思っている「自分」は、ほとんどが外からの評価や肩書き、年齢、役割などといったこと。よくよく考えてみると、すべて外の誰かが決めたものです。
自分の中のふたりの「自分」
ヨガスートラの中ではふたつの「自分」があるといいます。ひとつはラベリングされている自分。もうひとつは、何もラベリングされいない自分。
ラベリングをされている自分とは「変わりゆく観られるもの」
もうひとつの、ラベリングされていない自分とは「何があっても変わりなく観るもの」
この「変わりなく観るもの」が、小林美智子でなく、41才でなく、ヨガを伝えてるものでもない、なーんにもくっついていない「自分」。どんなときも「変わりゆく観られるもの」をみている、純粋な「自分」のことです。
このふたつが混ざってしまったときに苦しみが生まれると『ヨガスートラ』はいいます。本当の自分と、変わっていく自分との癒着が、苦悩の原因なのです。
私には娘がいます。寝る前にじゃれ合ったりすることがあるのですが、その日、娘はややエキサイトしていて、反対に私は疲れ切ってました。
そこで「お母さん今とっても疲れていて、遊びたい気持ちもあるけど、直ぐに眠りたいの。」と伝えてみたのです。
けれど結局、娘の遊びたい気持ちは治まらず。遊んで遊んで~!とじゃれてくる娘に、私はつい声を荒げてしまいました。あー、やっちゃったなー・・。
ところが娘は、ただ拒まれただけでなく「疲れてたからなんだ」と理解が生まれたらしいのです。それ以来(まだひと月だけど)、寝る前に声を荒げて拒むようなことはなくなりました。
どこでもできる「観るもの」に戻る練習
自分のゆれ動く感情を越え「観るもの(変わらない自分)」に意識があり、状況を客観的に観ていたからこそ、あのとき忠告することが出来たのです。忠告をしていたときは「観るもの」として、感情と距離がありました。
ところが、忠告してもじゃれてくる娘に声を荒げたときは、ふたつの自分「観るもの」と「観られるもの」が混ざり合ってしまった状態でした。つまり怒りそのものが、自分自身になってしまったのです。
ヨガスートラに書かれている苦悩は、迷い、悲しみ、過度な期待、怒り、渇望 など沢山の種類があります。それらはすべて感情から生まれてきます。自分の意識を変わらぬ「観るもの」に戻し、感情と距離を取る練習は、どこにいてもどんなときでも実践できます。
そして一度距離が取れて上手くいっても、練習をサボらず、上手くいかなくても、自分を責めず気長に楽しんで行うことが大切。だって私たちはすぐに「自分」を見失ってしまうのだから!(私はほぼ毎日言い聞かせてますよ!)