ある日のヨギティから考えるヴァイラーギャ:身近なヨガ哲学
2020.05.11
ヨギティのお言葉、読んでみてくださいね
It lies in what you can give.
もともとの文面を直訳すると「強さはあなたが持っているものにありません。それはあなたが与えることができるものにあります。」
物質的豊かさを追い求めず、むしろそれを誰かに与えることが豊かさだよ、って言いたいのだと思います
でも私ならこう訳します。
何かを持っていることじゃない。
何を提供出来るかだ
訳したときの「与える」という言葉にものすごく抵抗感があるんですね。
どんだけ上から目線なんだよ!って思ってしまう自分がいます。
「give=与える」…モノスゴク嫌いなんですよ…
口当たりのいい名言集には必ずあるこの「give」。
むしろだいっ嫌いといえるかもしれません。
なぜならどんなものも何もかも、『与える』ものじゃないと、私は考えているんです。
与えるということは、貰う人がいます。
そもそも自分の身を削ってどんなに与え続けても、人間は…聞きたいことしか聞かないし、見たいものしか見ません。
「与えられた」と思うから「あ、ラッキー、いぇーぃ」で済ませてしまうか…
もしくは何も感じずに、当たり前のように手にしてしまっていると思うのです。
望め! そして『有り難く』手に入れろ
すべての物事は与えられたから、自分のそばにあるのでも、もちろんあなたのそばにあるのでもありません。
それは、自分が、あなたが望んだからそこにあるのです。
何かを手にしたくて、泣いて叫んで手に入れようともがいてもがいてもがいて…『有り難く手に入れる』。
有り難い…それは有る、すなわち存在し難い、大切なもの。
今、自分が、あなたが手に入れたその『有り難い』なにかは…
与えられたからではありません。
望んだあなたが手に入れた、あなたの力なのです。
ヨガのプラクティスとして多くの人がアサナに取り組みますが、アサナだって同じ。
形を知っていて、やり方を知っていても、ポーズを取りたいと自分で望み、コツコツとプラクティスをすることで、より純粋なアサナに近づいていく。
だから私は「give」を「与える」とは訳しません。
与えるということは、「与えられる」人が出るからです。
むしろ自分の力を何か発揮する過程を経ないで「手に入れた」と思ってるものがあるなら…良く見て、良く考えた方がいいかも知れない。
ただ知ってるだけかもしれないから。
そんなモノは『手にした』とは言えないかもしれない。
手放せ! 軽やかに
そして今度は…
そうして『有り難く手にした』ものをいかに軽やかに、いかに簡単に『提供』してしまえるか!
思い切って、ポーン…と投出す。
与えるのではなく、投げ出し、提供してしまうこと。
もしもこれを「与えている」という意識で行うのであれば、その内側には、「自分が持つものである」の意識が存在している。
そうじゃない。
そうではなくて、持っていようがいまいが、何を提供出来るか。
きっとこれが
Aparigraha:अपरिग्रह
Vairāgya:वैराग्य
といった、貪欲さや執着から解き放たれて、いつか完全に手放すことすら意識しないことがやってくる。
(手放そう!とすること自体が「離欲」にってしまうからね!)
そもそも自然に沿って、自然を受け入れ、自然な自分を見出し、バランスをとって生きようとしていくことが、ヨガのひとつの在り方。
自然が、何かを所有している気持ちがあるだろうか。
植物に水を所有する気持ちがないように、自分にとって自然で、流れに逆らってない、自分の生き方をするためにヨガをしていこう。