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超訳!タントリックに考える『ヨガスートラ』第一章 1-26

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mikakowritten by MIKAKO:本郷 みかこ
今ある知識、感覚の中で『ヨガスートラ』を超訳意訳してみましょう!第一章、前半です!

 

ヨガスートラ第一章 1-26

समाधिपाद
Samādhi-Pāda
サマディ・パダ
ヨガとは、サマディとはなんだかを、哲学してみよう

अथ योगानुशासनम् ॥१॥
atha yoga-anuśāsanam ॥1॥
1.いま、ここ、私、に意識をむけるのがヨガです

योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः ॥२॥
yogaś-citta-vr̥tti-nirodhaḥ ॥2॥
2.そのためにヨガでは、「ヴリッティ」と呼ばれる心の作用(:動き)を(自然な状態に)抑制または方向付けていきます/p>

तदा द्रष्टुः स्वरूपेऽवस्थानम् ॥३॥
tadā draṣṭuḥ svarūpe-'vasthānam ॥3॥
3.そのコントロールが出来たそのとき、『みるもの︰本当の自分』と一体となり、本来の「そのままの姿」にとどまることができるのです

वृत्ति सारूप्यमितरत्र ॥४॥
vr̥tti sārūpyam-itaratra ॥4॥
4. 「ヴリッティ︰心の作用」が働いているとき…つまり自然な状態にコントロールしている以外のとき、自分で自分が「そうだ」と思っている「作用しているもの:別の何か」が自分であると思ってしまいます

वृत्तयः पञ्चतय्यः क्लिष्टाक्लिष्टाः ॥५॥
vr̥ttayaḥ pañcatayyaḥ kliṣṭākliṣṭāḥ ॥5॥
5. ヴリッティには五種類あり、大きく分けるとふたつ、自分自身にとって「苦痛に満ちたもの」と「苦痛のないもの」に分かれます

प्रमाण विपर्यय विकल्प निद्रा स्मृतयः ॥६॥
pramāṇa viparyaya vikalpa nidrā smr̥tayaḥ ॥6॥
6. 私達がつい自分と思い込む「ヴリッティ:心の作用」の5つとは「プラマーナ:洞察したもの」「ヴィパリヤヤ:誤解や間違い、勘違い」「ヴィカルパ:言葉で想像し錯覚したもの」「ニードラ:深い眠り」と「スマルタヤ:記憶に残っている事柄」です

प्रत्यक्षानुमानाअगमाः प्रमाणानि ॥७॥
pratyakṣa-anumāna-āgamāḥ pramāṇāni ॥7॥
「プラマーナ:洞察したもの」とは、直接目で実際に見たなにか、推理して考えついたなにか、そして、権威ある書物や信じられる人によって告げられたなにか…です。しかしその自分が頼っている「洞察したもの」は、根拠のある根本の真理であるだろうか

विपर्ययो मिथ्याज्ञानमतद्रूप प्रतिष्ठम् ॥८॥
viparyayo mithyā-jñānam-atadrūpa pratiṣṭham ॥8॥
8. 「ヴィパリヤヤ:誤解や間違い、勘違い」も、自分がすでに持っている洞察したものなど、様々な知識や認識といった自分の思い込みが、それ本来『そのもの』と食い違っているときに起こります

शब्दज्ञानानुपाती वस्तुशून्यो विकल्पः ॥९॥
śabda-jñāna-anupātī vastu-śūnyo vikalpaḥ ॥9॥
9. 「ヴィカルパ:言葉で想像し錯覚したもの」に至っては、実際に現実の世界に存在する/しないに関わらず、言われたことによって「そうだ!」と自分が勝手に心の中に持ってしまうものです

अभावप्रत्ययाअलम्बना तमोवृत्तिर्निद्र ॥१०॥
abhāva-pratyaya-ālambanā tamo-vr̥ttir-nidra ॥10॥
10. 「ニードラ:深い睡眠」も、自分自身が勝手に、心になにも起こっていない…静かな状態だった…と認識してしまっていますが、実際には意識のある心の作用のひとつです

अनुभूतविषयासंप्रमोषः स्मृतिः ॥११॥
anu-bhūta-viṣaya-asaṁpramoṣaḥ smr̥tiḥ ॥11॥
11. 過去に経験し、今も忘れていないこと…忘れたように思っていても戻ってくるものが「スマルタヤ:記憶に残っている事柄」です

अभ्यासवैराग्याअभ्यां तन्निरोधः ॥१२॥
abhyāsa-vairāgya-ābhyāṁ tan-nirodhaḥ ॥12॥
12. こうした「ヴリッティ:心の作用」を抑制しコントロールしていくことは、「アビヤーサ︰修習」と「ヴァイラーギャ︰離欲」の間のバランスを見出すことで得られます

तत्र स्थितौ यत्नोऽभ्यासः ॥१३॥
tatra sthitau yatno-'bhyāsaḥ ॥13॥
13. いつ、いかなるときもヨガの学びの中にいるように勤め、自分を自然な状態に導こうと努力し続けることが「アビヤーサ︰修習」です

स तु दीर्घकाल नैरन्तर्य सत्काराअदराअसेवितो दृढभूमिः ॥१४॥
sa tu dīrghakāla nairantarya satkāra-ādara-āsevito dr̥ḍhabhūmiḥ ॥14॥
14. 細く長く長期間に渡り、毎日毎日、継続的に休みなく…確かにいつでも学び続けると本気で心に決め、誠実に向き合いただひたすらに学び努力すると、何にも揺るがない確かなものを手に入れることができる

दृष्टानुश्रविकविषयवितृष्णस्य वशीकारसंज्णा वैराग्यम् ॥१५॥
dr̥ṣṭa-anuśravika-viṣaya-vitr̥ṣṇasya vaśīkāra-saṁjṇā vairāgyam ॥15॥
15. 自分が見たものや聞いたもの、心が引き寄せられるような、心が色づくようなことから、意識を離しておこうとすること…それが「ヴァイラーギャ︰離欲」です。そうして心をクリアにし、欲無く「アビヤーサ︰修習」との間のバランスを見出します

तत्परं पुरुषख्यातेः गुणवैतृष्ण्यम् ॥१६॥
tatparaṁ puruṣa-khyāteḥ guṇa-vaitr̥ṣṇyam ॥16॥
16. 『プルシャ︰根源の自分/自然の真理』に出逢うことが出来、心が根源とつながると、「グナ︰自然の流れの基礎要素」に溢れた自然な自分でさえ手に入れようとしなくなり、常に自由で平安な状態の中にいることになる

वितर्कविचाराअनन्दास्मितारुपानुगमात्संप्रज्ञातः ॥१७॥
vitarka-vicāra-ānanda-asmitā-rupa-anugamāt-saṁprajñātaḥ ॥17॥
17. サマディの中の『サムプラジュナータ・サマディ︰自己回帰へのサマディ』は四段階とされ、身体や物質として論理的に理解される「サヴィタルカサマディ」、コレといった物質的対象物のない、抽象的観念に理解される「サヴィチャーラサマディ」、さらにそうした物質も抽象概念もない、ただ静かな至福に包まれた心そのものに理解される「サアーナンダサマディ」、そし4つめに、ただひたすらに「私」という個の意識に理解される「サアスミターサマディ」へと、段階的にプロセスを踏んで、自己の内側へと帰っていきます

विरामप्रत्ययाभ्यासपूर्वः संस्कारशेषोऽन्यः ॥१८॥
virāma-pratyaya-abhyāsa-pūrvaḥ saṁskāra-śeṣo-'nyaḥ ॥18॥
18. もうひとつのサマディである『アサムプラジュナータ・サマディ:区別のないサマディ』は、前の四段階がしっかりと実践され、「ヴリッティ:心の作用」が完全に停止することですべての知覚が消滅し、最後に残る「サマスカーラ:印象」のみになっているときに表れる

भवप्रत्ययो विदेहप्रकृतिलयानम् ॥१९॥
bhava-pratyayo videha-prakr̥ti-layānam ॥19॥
19. 一度『アサムプラジュナータ・サマディ:区別のないサマディ』を経験すると、『プラクリティ:自分を形作るもの』である物質的な身体を手放したとしても、次に生まれるときに、生まれつきその状態を維持した「ヴィデハ(聖者)」となる

श्रद्धावीर्यस्मृति समाधिप्रज्ञापूर्वक इतरेषाम् ॥२०॥
śraddhā-vīrya-smr̥ti samādhi-prajñā-pūrvaka itareṣām ॥20॥
20. それ以外で生まれついたものは、信念をもち、ひたすらに努力に努め、そうあるべく願い、今までに学んだことを心がけ、「サマディ」を手にしていく

तीव्रसंवेगानामासन्नः ॥२१॥
tīvra-saṁvegānām-āsannaḥ ॥21॥
21. 集中し、情熱をもって修練するものに、必ず『アサムプラジュナータ・サマディ:区別のないサマディ』はやってくる

मृदुमध्याधिमात्रत्वात्ततोऽपि विशेषः ॥२२॥
mr̥du-madhya-adhimātratvāt-tato'pi viśeṣaḥ ॥22॥
22. その修練をゆったりするのか、非常に集中的にやるのか、どの程度時間をかけるのか、などによって『アサムプラジュナータ・サマディ:区別のないサマディ』に至るまでの感覚は変わる

ईश्वरप्रणिधानाद्वा ॥२३॥
īśvara-praṇidhānād-vā ॥23॥
23. 『アサムプラジュナータ・サマディ:区別のないサマディ』は「イシュワラ:宇宙意識」への完全な帰依によっても至ることができる

क्लेश कर्म विपाकाअशयैःअपरामृष्टः पुरुषविशेष ईश्वरः ॥२४॥
kleśa karma vipāka-āśayaiḥ-aparāmr̥ṣṭaḥ puruṣa-viśeṣa īśvaraḥ ॥24॥
24. 「イシュワラ:宇宙意識」とは、いかなる苦悩も、行為も・・そしてそれによって起こる結果や願望、欲望など、移り変わるすべてのモノに、まったく影響されない至上の『プルシャ︰根源の自分/自然の真理』であり、特別な存在です

तत्र निरतिशयं सर्वज्ञबीजम् ॥२५॥
tatra niratiśayaṁ sarvajña-bījam ॥25॥
25. 「イシュワラ:宇宙意識」とは、すべての根源となる全知識であり、規定や限定のない比類なきものです

स एष पूर्वेषामपिगुरुः कालेनानवच्छेदात् ॥२६॥
sa eṣa pūrveṣām-api-guruḥ kālena-anavacchedāt ॥26॥
26. 「イシュワラ:宇宙意識」は時間を超えた、制限のない存在なので、太古におけるどのような人にとっても「グル:師」であり、あなたの中に眠る『プルシャ︰根源の自分/自然の真理』や「イシュワラ:宇宙意識」とは、まさに最初のひとりにとっての師でもあるのです

どうでしょう、あなたの中にも『プルシャ︰根源の自分/自然の真理』はいます。
ヨガとはその『プルシャ︰根源の自分/自然の真理』と出会うための、壮大な旅路ともいえます。

その旅はほんの一歩から始まり、ひたすらにその道を修練し歩き続ける継続力のあるものが、いつか遥か遠くまでたどり着くのです。

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